とやま水マップ[常願寺川流域圏の水文化の概要]
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常願寺川流域圏の水文化の概要
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安政5年の大災害|済民堤|佐々堤|殿様林|デレーケの改修|立山砂防|白岩砂防ダム|本宮砂防ダム|泥谷砂防堰堤|新庄排砂水門|立山カルデラ砂防博物館|立山博物館|有峰森林文化村|常願寺川フィールドミュージアム構想|名水|常西合口用水プロムナード|岩峅寺の大釜伝説|常願寺川の主伝説|永昌寺の耳地蔵|安政の大転石|常西水神社|水橋の渡し|水橋水神社水橋橋祭り|水にちなんだ地名
- 1858年(安政5年)4月9日の跡津川断層による大地震では、大鳶山・小鳶山が大崩壊を起こし、4億1千万立方メートルにおよぶ大量の土砂を押し出し、湯川・真川の各渓流をせき止め、付近一帯を埋塞して、一大泥水湖を形成した。
- この自然ダムは4月22日、5月9日、6月7日の3回にわたり融雪出水のため決壊し、大土石流となって下流部を襲った。この時の被害は、人家流出4,101軒、死者140人、田畑流失34,000石という悲惨なものだった。
- この大災害以来、常願寺川の河相は一変したといわれ、河床は水源山地から流出する土砂により年々上昇し、全国でも稀に見る荒廃河川となった。
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- 左岸、富山市西ノ番に済民堤とよばれる昔の堤防の跡がある。かつて以前に築かれていた堤防が洪水で埋まってしまい、その上に改めて築かれたもので、土地の人々が常願寺川の治水に力をつくした先人をしのび、民を助ける堤防として「済民堤」と名づけたと伝えられている。
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- 左岸、大山町馬瀬口を流れる常西用水の川底から顔をのぞかせている古い石の堤防。戦国時代、大水が出ると馬瀬口あたりからあふれ、富山城下を水浸しにした。こうした水害を無くするために佐々成政が造らせた堤防。
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- 常西用水沿いにつづく古い松林で「殿様林」と呼ばれている。江戸時代、富山藩の6代藩主前田利與公が水防林として植えさせたもの。はじめは6haもあったが、戦争中ほとんど切りたおされて現在では100本程が残っている。
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- 明治24年の大出水の後、オランダ人技師ヨハネス・デレーケが明治政府に献策した改修工事。その特徴として、「霞堤による洪水氾濫流の減勢」「白岩川との河口分離による洪水疎通能力の向上」「農業用水の合口取水による堤防の強化」などがあり、この方針は戦後の、そして現在の改修計画にも反映されている。
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- 安政5年の大地震で崩れた大崩壊地(立山カルデラ)で崩壊土砂が洪水等で一気に下流へ流れ出さないようにするために、明治39年(1906年)から県で始められた砂防事業。度重なる水害のため県では手におえなくなったので国に工事を願い出たところ、1926年(大正15年)からは国直轄事業として行われるようになった。今日に至るまで、人里はなれた山奥で営々として営まれている。
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- 1999年(H11年6月7日)、砂防ダムとしては全国で初めて国の登録有形文化財に登録された日本一の高さを誇る砂防ダム。高さ63m、1939年(昭和14年)に完成、7基の副ダムと合わせると落差は108m。白岩砂防ダムは不安定な土砂をカルデラの出口で押さえ込むために建設された常願寺川砂防計画の土台となる砂防施設である。
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- 1999年(H11年8月23日)国の登録有形文化財に登録された日本一の貯砂量500万立方メートルを誇る砂防ダム。本宮砂防ダムは常願寺川の中流部に建設され、流出土砂によって下流の河床が上昇するのを防ぐため、1937年(昭和12年)に竣工しました。白岩砂防ダムとならんで常願寺川の砂防にとって最も重要な施設である。
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- 2002年(H14年6月25日)国の登録有形文化財に登録された砂防堰堤。平成11年に登録文化財となった白岩砂防堰堤や本宮砂防堰堤とともに、常願寺川の砂防事業の基幹をなすもので、渓岸侵食や不安定土塊の移動防止のため、昭和5年から昭和13年にかけて造られた砂防堰堤群です。標高差122m、延長457mの区間に、コンクリート製で表面に石を張った砂防堰堤20基及び床固3基が階段状に連続して築かれています。
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- 富山市新庄の常西合口用水に残っている古い水門で、常西合口用水に流れ込む土砂を排砂水路を通じて神通川へ流すために1900年(明治33年)造られたもの。水門が赤レンガで造られているので「新庄の赤門」と呼ばれている。
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- 立山カルデラの大自然とそこで行われている砂防をテーマにした博物館で平成10年に開館した。館内には、併設して国土交通省立山砂防工事事務所の資料館もある。
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- 「立山曼荼羅」に凝縮された先人の知恵と精神性豊かな文化を、特色ある手法と斬新な感覚によって紹介する博物館。
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- 「有峰森林文化村」は、「水と緑といのちの森を永遠に」を基本理念に掲げ、豊かな原生林が残る大山町の有峰湖周辺を憩い、学習、保全の場として活用するもの。平成14年8月に開村し、初代村長には、国際日本文化研究センター顧問の梅原猛氏が就任した。
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- 「常願寺川フィールドミュージアム構想」は、常願寺川流域にある佐々堤や殿様林などの文化財や国交省富山防災センターなどの施設をネットワークで結び総合的に活用して常願寺川流域一帯をひとつの「博物館」に見立て住民と河川との触れ合う場を提供しようとするもの。
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- 水の王国・富山県では環境省が選んだ「日本の名水100選」に、全国で最も多い4ヵ所が選ばれている。その一つ「立山玉殿の湧水」は、標高2,450m地点のアルペンルート立山トンネル内に湧き出す立山の名水である。
- 常願寺川は川全体が県の名水に選ばれているほか、流域には滝・湖・川・湧き水などのいろいろな名水がある。
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- 明治時代に常願寺川左岸の12の用水が合併合口化してできた用水で、人々の安らぎや憩いの場として用水沿いに遊歩道、休憩所、桜並木等が整備されている。
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- 言い伝えに寄れば、「安政5年の大洪水」で、岩峅寺にあった大釜が河口まで流されてしまった。次の年から、大釜は祭りの日になるとシャケになって川をのぼり、岩峅寺にやってきた。村人たちがつかまえようとすると、シャケはパッと釜のすがたにもどって、ゴーンゴーンと大きな音を打ち鳴らし、あっという間に、また川を下っていったそうだ。
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- 「安政5年の大洪水」のとき、現在の立山町に住んでいた深見六郎右衛門という百姓が常願寺川の河原へ行くと、上流から大きなクジラのようなバケモノがやってきた。バケモノが川上と川下を何度も行ったり来たりすると、常願寺川の洪水はますます激しくなった。そして、なにやら青いものが光ったかと思うと、バケモノは消えてしまった。村人たちは、この奇妙な出来事に震え、それは「常願寺川の主」だとうわさしたそうだ。
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- 昔、常願寺川の洪水で、芦峅寺にあったお地蔵様が西大森まで流されてしまった時のこと。永昌寺の住職は三晩つづけて、「わたしを助けてくれたときには耳の病を直そう」という救いを求めるお地蔵様の夢を見た。次の日、村人たちが河原を探してみたところ、石ころの間に光るものがあり、近づいてみるとなんとお地蔵様だった。そして夢でいった通りに、お地蔵様はどんな耳の病も直してくれたそうだ。人々から「耳地蔵」と呼ばれるようになり、今も永昌寺で大切に守られている。
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- 1858年(安政5年)4月、富山地方を襲った地震は震度6といわれるほどの大地震で、融雪期には下流部に甚大な被害をもたらした。この時に押し出されてきた大石が、常願寺川沿岸いたる所に見られる安政の大転石で、中には300トンを超す大石もあり、水のもつ想像を絶するエネルギーを私たちに如実に示している。なお、この大転石のいくつかは安全を祈願した水神様として祭られている。
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- 古来より明治25年(1892)の常願寺川河身改修まで、今の白岩川は倍の川幅で「水橋川」という名で呼ばれていた。
- 河口部近く水橋の町は北陸往還道の要衝であり、そこにあった渡しが「水橋の渡し」で平安時代の作家である清少納言は人伝に聞いた「みずはしの渡り」という名が不思議に思え、めずらしい渡しの名ということで枕草子に書き留めている。
- 幕末に水橋町肝煎等が藩主に申し出て架橋の許可が出たのが明治元年、その年に着工し完成したのが明治2年6月である。橋の長さは136間(246m)、幅は2間5尺(約5.2m)途中2ヵ所に馬除けが設けられ青銅擬宝珠づきの欄干の見事な橋ができ「立山橋」と命名された。この橋に要した用材は常願寺川奥山の御林杉から700~800本切り出し、足りない分の残り300~400本は常願寺川右岸流域の村々の神社境内にある神木を用いた。
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- このように主として神木を用いたので住民は神の祟りを案じ、神慮を慰め、かつ川の安泰を念じて余材を使って橋のたもとに「水神社」を建立した。これが「水橋水神社」の由来である。祭神は大国主命で毎年6月26、27日(現在は7月の第四土日)に祭礼が行われている。この祭礼が現在まで続いている水橋橋祭りである。
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- 「大清水(おおしょうず)」、「泉(いずみ)」(立山町)、「水橋(みずはし)」(富山市)