とやま水マップ[庄川流域圏の水文化の概要]
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庄川流域圏の水文化の概要
小矢部川|庄川|神通川|常願寺川|黒部川
柳瀬普請|松川除(まつかわよけ)|庄川合口用水|小牧ダム|庄川合口用水ダム|ため池|庄川の電力発電|平地の低落差発電所|和田川総合開発事業|治水事業を通して発展した治水・利水技術、建設業(S工業)|水が生んだ特産品|庄川の漁|庄川挽物、種籾、五箇山和紙|チューリップ球根栽培|五箇山合掌造り集落|庄川の流木|渡し|庄川の遊覧船|庄川水記念公園|砺波郷土資料館|清水町配水塔資料館|となみ野田園空間整備事業|名水|ホワタ|ツボ|あしつきのり|合わせ水|らせん水車|融雪池(五箇山合掌造り)|カッパとあやまち寺|お小夜伝説|弁財天社|井堰神社|厄払い鯉の放流|庄川水まつり|出町子供歌舞伎|越中大門凧祭り|砺波平野の散居村|水の郷認定|大伴家持の歌|高樹文庫|水にちなんだ地名
- 加賀藩政時代の治水工事。庄川の洪水から高岡を守るため、砺波市柳瀬に堤防を築いた。この工事を柳瀬普請という。
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- 柳瀬普請だけでは砺波平野を洪水から守れないので、庄川扇状地の扇頂部の弁財天社前で庄川の流れを一本にする工事を始めた。堤防の長さ2kmにもわたり、45年の歳月と延べ100万人を超える労力を費やし1714年(正徳4年)ついに完成した。堤防をしっかり固めるために松の木が植えられたことから「松川除」と呼ばれるようになった。
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- 合口化される前は洪水で川筋が変わったり、日照りで水不足が起こるたびに水の取入れをめぐって争いになった。このため、平等に水を配分できる合口化が待たれていた。1916年(大正5年)小牧ダムの建設計画に合わせて「農業用水取入口合口計画」が進められ、1939年(昭和14年)に左岸、翌年に右岸の水路が完成した。この用水は約12,300haの水田を潤おし、砺波平野は県内有数の穀倉地帯となった。
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- 1916年(大正5年)の冬、氷見市出身の実業家で「セメント王」とも言われた浅野総一郎(当時68歳)は庄川を視察して「おお,黄金が流れている」と言ったという。浅野はそれまでにも関東水力電気会社を興し、利根川などで発電所を建設していた。同8年に庄川の水利権を得て、庄川水力電気(株)を設立し、小牧ダムの建設に着手した。しかし、折からの経済不況と関東大震災により資金調達が困難になり、工事は中断を余儀なくされた。事業は日本電力に引継がれ、小牧ダムは1930年(昭和5年)に完成した。
- ダムは重力式コンクリート構造で、堰堤の高さは79m、長さは300mあり、全貯水量は3,800万立方メートルで17のゲートを備えていた。当時、東洋一のダムであった。
- 「庄川流木事件」は、浅野総一郎が小牧ダムを計画したときに起きた事件でダムができると木材業者は木材を流せなくなり、大損害をこうむると反対した事件。争いは裁判の場に持ち込まれ、どちらも庄川の使用権をめぐって約8年にわたって争った。その結果、木材運送の権利が認められ、それを侵害した電力側に賠償金を支払うよう判決が下りた。ダム建設と伴に、木材は陸路で輸送されるようになり庄川に流木の風景は見られなくなった。河川にかかる裁判史上、「庄川の流木事件」として全国的に有名な事件である。
- 国指定の登録有形文化財(H14年6月25日登録)
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- 庄川合口用水の取水堰で、小牧ダムの下流、庄川町に1941年(昭和16年)に完成した。合口が本格的に検討されたのは大正末年、小牧ダムの工事が始まってからである。ダムができると土砂の流下が止められて河床が下がり用水の取入れが困難になることが予想されたからである。
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- 「薬勝寺池」:小杉町下条地区一帯のかんがい用ため池として、約500年前に造られたものと伝えられています。現在は、町の都市公園として整備されており太閤山ニュータウンの中のオアシスといて人々に親しまれています。
- 「女池」:県民公園太閤山ランドの中にあるかんがい用ため池。
- 「豆山池」:砺波市正源寺にあるかんがい用ため池で約270年前に造られた。
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- 庄川水系には18ヵ所の発電ダムがあり、最大出力97万2,000kwの発電が行われている。有名なダムとしては、電源開発の御母衣ダムや関西電力の小牧ダム等がある。
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- 庄川流域にも用水を利用した中野発電所や土地改良事業で建設した安川発電所がある。
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- 庄川支流の和田川の水を総合的に利用しようと、1945年(昭和20年)代に計画された開発事業。庄川合口用水ダムから水を取り、砺波市増山に造った和田川ダムに貯めて、洪水を防いだり、農業に利用したり、発電もするという多目的な計画で、後には、富山新港臨海工業地帯の工業用水(一日に最大30万立方メートル)、新湊・射水地区への上水道(1日に最大7万5千立方メートル)にも利用されるようになりった。
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- 佐藤家三百年の歴史は、庄川筋の砺波市柳瀬にあって、砺波の穀倉を庄川の水害から守った悪戦苦闘の歴史である。そしてまた、佐藤がわが国の土木事業の歴史に名をとどめる最大の功績は新しい堤防の構築法を開発したことに深く関わっている。
- 10代佐藤助九郎(弘化4年-明治37年)は明治24年に内務省技師として来日したオランダ人ヨハネス・デレーケを招き、その指導で名だたる暴れ川常願寺川の難工事に取り組む。このときの貴重な経験から、デレーケの機械による工法に加えて、一番堤防の中間ほどから下流に向けて二番堤防を新設し、一番堤防の切れたところで水勢をこれに導いた後、また本流に戻して氾濫を防ぐという「霞堤(かすみてい)」方式を考案した。この方式は、以前から佐藤組の特技であった「桝型堤」を改良したものといわれている。学理にかない、効果も大きかったので、たちまち全国に普及した。
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- 「大門そうめん」は、砺波市の農家が冬の副業としてつくるそうめんで、砺波市大門地区を中心に行われているので大門そうめんと呼ばれている。1848年(嘉永元年)ごろに始まったと言われている。11月から3月までの冬場、冷たい水で練り、細くのばし、寒風にさらして乾かすとコシの強い、おいしいそうめんが出来上がる。年間約280万食分が出荷されている。
- 「庄川ネギ」は、庄川の河口に近い辺りの河川敷を利用して栽培が行われているネギで、今では庄川ネギという名で広く知られている特産品である。
- 「五箇山豆腐」は、ひもでしばって持ち歩いてもこわれないほど固い豆腐で五箇山の名物です。今ではつくる店も少なくなりましたが、五箇山の郷土料理に欠かせない食材で土産としても喜ばれています。
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- 庄川ではアユの稚魚を放流している。成長したアユは6月頃に庄川に戻ってくる。アユの「ころころ釣り」は、県内では庄川と神通川だけで許可されている捕り方。また、サケ・マスは、庄川に日本海側で一番多く帰ってきている。大門町広上の庄川養魚場では、採卵、人工ふ化したサケ・マスの稚魚を庄川に放流している。
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- 「庄川挽物」は、庄川町が木材の集積地であったことから生まれた産業。挽物とは、木材をろくろで回転させながら椀や盆、皿などに加工するもので漆塗りの器の木地となることから、これらを作る職人のことを木地師と呼ぶ。庄川挽物の始まりは、1866年(慶応2年)頃で、昭和になると生産量も増えて全国に出荷されるようになった。現在では、木地はもちろん木のぬくもりを生かした木製品の産地としても知られている。
- 「種籾」:米を作るために毎年必要となる種籾の生産量は、庄川町種田が全国一である。このため、ここは「種籾王国」と呼ばれている。広い水田とたっぷりの水、庄川から吹きおろす乾いた風が品質のよい種籾を育てる。
- 「五箇山和紙」:五箇山地方で古くからつくられている和紙。国の伝統工芸品に指定されている。和紙の原料は冬場に山から切り出したコウゾの皮をむき、雪の上で乾かしてから何日も水を変えながら晒して作る。この雪の上で乾かすことを「雪晒し」といい冬の五箇山の風物詩である。
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- 砺波扇状地の土壌は砂質土で水はけがよくチューリップ球根栽培に適している。稲作の裏作として砺波地方で広く栽培されている。今では、球根のほかにチューリップを活かした商品開発が盛んに行われており、球根菓子、花びら染め、香水、石鹸、入浴剤などが好評をはくしている。
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- 赤尾谷、上梨谷、下梨谷、小谷、利賀谷の5つの区域をまとめて五箇山と呼ぶ。昔、砺波合戦に敗れた平家の落人が逃げ込み住み着いたと伝えられる五箇山には、大雪に耐えるかやぶき屋根の合掌造りの家々が今も残っている。菅沼合掌集落(上平村)と相倉合掌集落(平村)は、岐阜県白川郷の荻町合掌集落とともに世界遺産に登録されている。
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- かつては、五箇山や飛騨の山林からの木材の輸送に、庄川を利用した。「川下げ」と呼ばれる川の流れを利用した運送方法で、この川下げは昭和の初期までつづいた。この木材の川流しを仕事とする職人さんたちを「流送夫」と呼んでいた。10月中旬から材木を本流に流す「川入れ」にとりかかり、それが終わると「川狩り」と呼ばれる作業に入った。「川狩り」とは、舟で川を下りながら川岸や大岩に引っかかった材木を下流へ押し流す作業のこと。なお、木を切り出し、かたちを整えて本流の庄川まで運ぶまでは「きこり」、「そうまさ」と呼ばれる人々の仕事であった。本流まで運ぶことを、「山出し」、「谷出し」と言った。使う道具によって「修羅出し」、「木馬出し」、「鉄砲出し」等があった。
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- 庄川上流、深い山に囲まれた五箇山は、昔の技術では橋を架けることがむずかしい地形であった。また、五箇山は加賀藩の流刑地になっており、流刑人の脱走を防ぐためにも橋造りが禁止されていた。橋の無い時代には藤づるで編んだ太い綱に篭をかけ、ロープウエイのように移動する「篭の渡し」が使われていた。
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- 関西電力が運航する遊覧船。小牧ダム湖の庄川船舶事務所を出発し、上流、利賀村の大牧温泉で折り返す往復16km、約1時間のクルージングが楽しめる。今は観光用だが、20年ほど前までは、平野部と五箇山を結ぶ住民の大事な足であった。
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- 庄川町の歴史は川とともにあるので、「町全体を水記念公園に」という考えから、そのシンボルとして「庄川水記念公園」が生まれた。公園の中には、水の圧力で動く大噴水や水資料館等が並んでいる。
- 「アクアなないろ館」は、水記念公園内にある水資料館で、水と遊び、水を学ぶ資料館。水と人間とのかかわりや、そこに生まれた暮らしの知恵、生活文化などを映像や展示で紹介している。
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- 1909年(明治42年)に中越銀行の本館として造られた建物をチューリップ公園に移築して昭和58年に開館した資料館。常設展示では、「砺波地方の風土と心」と題して出土遺物や地形図、パネル等で砺波地方の歴史を紹介している。また、全国的に有名な「散居村」研究の拠点として「砺波散村地域研究所」を併設して、年2回の例会や講演会を行い、研究紀要を発行している。
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- 高岡市清水町にある、上水道の普及の歴史を紹介している水道資料館。昭和6年に建設されたレンガ造りの外観を持つ源井戸(地下水)用の上屋とコンクリート造りの水槽で配水塔とともに親しまれている。
- 国指定の登録有形文化財(H9.5.7登録)
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- 砺波平野は、豊かな水を背景に古くから穀倉地帯として栄え、また、屋敷林(カイニョ)に囲まれた農家が点在する散居村は、わが国を代表する農村の原風景のひとつである。
- この豊かで美しい散居村の保全・整備を図り、歴史と伝統的な文化(散居景観、屋敷林、伝統的家屋等)が息づき、水と緑があふれ、住民も訪れる人も共に楽しめる田園空間づくりを推進する事業。事業実施期間は、平成10年度~平成17年度で総事業費23億円で計画されている。
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- 庄川は川全体が県の名水に選ばれているほか、流域には滝・湖・川・湧き水などいろいろな名水がある。
- 水の王国・富山県では環境庁が選んだ「日本の名水100選」に、全国で最も多い4ヵ所が選ばれている。そのうちの一つ「瓜裂清水」(庄川町)については、次のような言い伝えがある。井波の瑞泉寺を開いた綽如上人が庄川を通った時、馬のひづめが突然に沈み、そこから清水が湧き出した。里人が差し上げた瓜をそれで冷やすとあまりの冷たさに瓜が裂けたので、綽如上人が「瓜裂清水」と名付けた。それ以来、600年間どんな干ばつにも涸れることなく、大切な生活の水として守られてきた。
- 流域には、その他に「弓の清水」(高岡市)、「誕生寺の誕生水」(大門町)等の名水が有名である。
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- 庄川扇状地では地下水位が深いので井戸を持つ家はほとんどなく、上水道が引かれるまでは川水を利用していた。つまり水路(カワ)を引き、この水路の水を屋敷内の「ホワタ」に引いて利用していた。
- 水路は上流(カミ)から下流(シモ)に向かって屋敷を束ねるように通っている。屋敷に通された水路は母屋の裏側(セド)を流れ、セドシモの位置で「ホワタ」と呼ばれる広さ3.5~5平方メートル、深さ1mほどの池にいったん溜まった。
- 「ホワタ」は母屋の台所を出てすぐのところに造られて、そこで物を洗ったり、食べ物を冷やしたり、魚を飼ったり様々に利用していた。
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- 台所の下水や水を屋敷の中の「ツボ」(地面に掘った穴)に溜めておき汚水を沈殿させ上澄みだけを屋敷周りの水田に流した。
- 「ホワタ」、「ツボ」は水道が引かれる前に水路の水を生活用水として使うために水を汚さないように気を配る生活の知恵であったが、水道が引かれて川水を使わなくなると姿を消した。
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- 「あしつきのり」は、渓流や湧き水地帯の水温14~16度の水中に発育する団塊状の藍藻類で、清水の中の葦の茎、または川底の石の表面に2~4cm位の暗緑褐色の団塊となって着生する。このため、土地の人々は、「石もち」と呼んでいた。
- 天平の古から庶民生活とも結びつき、万葉集によって紹介されたという古い歴史をもつ「あしつき」であるが、現在は、わずかに庄川右岸の大門町西広上と上流の中田町上麻生の湧水地帯に限って発生し、いずれも天然記念物に指定されている。
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- 嫁入り時、実家から竹の筒に水を持参する。そして花嫁が婚家へ着くと、嫁入り先の水を用意し、仲人が両方をあわせ、カワラケに両方の水を入れて花嫁さんに飲ませる。花嫁がその水を飲むと仲人はそのカワラケを受け取ってミミイシ(耳石)という玄関の上がりたての石にぶつけて割る。そのことによって後には戻らない、そして婚家先の水が合うように願う。水が合うというのは、いわゆる家風が合うということである。水と人との暮らしの1つの象徴的な事例である。
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- 庄川扇状地の用水路の小落差を活用することで普及したらせん水車は、大正時代に砺波で発明、改良された水車で、脱穀やもみすりの動力として使用され、国内はもとより広く東南アジア各国にも伝播した。
- 砺波市では、チューリップ公園に隣接して「水車苑」を整備し、らせん水車や粉ひき装置などを保存展示するほか、新又口用水に五連揚水水車を設置して、市民の憩いの場となっている。
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- 冬になれば合掌造りでの生活は、一面雪との闘いでもある。巨大な建物になればなるほど、その雪の量は大変なものとなる。屋根の雪下ろしは同時に下ろした雪の後始末という大変な労苦が待っているのである。
- 合掌造りの中での営みには、蚕の仕事と紙すきの仕事などが多く、そのいずれもが広いスペースを必要とし、合掌造りは巨大化へと進んだ。その結果として、融雪地を設けることで、下ろした後の屋根雪を溶かすことは、一階部分が雪に埋まることへの解決策になったと思われる。
- 屋敷地をどこに求めるのか、それは古い時代からの成り行きで決められていた面もあると考えられるが、水の便は是非とも必要な要素であり、紙すきをするためには最低限の必要条件でもある。
- そうしたことの結果として、融雪地も設けることになったが、近年、上水道の普及以外に塩化ビニールのホースの普及で、遠くの谷を越えてまでも水を運ぶことが可能になり、ポリシートとの併用で、冬場だけの仮設型の融雪地やコンクリート造りのケースも見られる。
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- 次のような言い伝えが残っている。
「500年前ほどのこと、長福寺の和尚さんが馬小屋で馬のしっぽにカッパの手が付いているを見つけて家に持ち帰った、その夜、カッパが現れて手を返してくれとたのんだ。カッパは、返してくれたお礼にあやまちを直す術を和尚さんに教えた。けが人を直したその術は「明応遺法」といい、長福寺は「あやまちの寺」と呼ばれるようになった。」
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- 上平村には次のような言い伝えが残っている。
「300年前ほどのこと、お小夜という女が加賀藩の罪人として五箇山の小原村へ流されてきました。お小夜は、ときどき牢を出ることを許されましたので、村の若者たちに歌や踊りを教えました。そのうち、お小夜は隣村の吉間という青年と仲良くなり身ごもってしまいました。罪人が身ごもることは禁じられていましたので、それが知れることを恐れて、お小夜は庄川に身を投げてしまいました。その後、吉間はお小夜をとむらって諸国をまわりました。」
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- 約400年前、大地震が襲い、庄川上流は至る所で山崩れが起き川は氾濫した。このとき、富山藩主前田利長が庄川にかけつけてみたところ、激しい川の流れの中に1つの小さな島が残っていた。そして、その島のおかげで下流の人々が洪水から守られていた。その後、利長はこの島に弁財天を祭るように命じた。現在でも庄川町雄神橋の西のたもとにある弁財天社は、洪水から人々を守る水神として祭られている。(庄川町庄金剛寺)
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- 用水の神様で庄川本流から取水している用水のいちばん上流にある。(庄川町金屋岩黒)
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- 庄川町で行われている行事で、厄年を迎える男女が40~50cmもある大きな鯉にお神酒をのませて順々にさわって庄川に放流する。生命力あふれる鯉にあやかり、またわざわいを鯉に移すことで、無事その年を送ることが出来ると言われている。
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- 庄川町水記念公園で毎年8月上旬「水まつり」が行われている。かつて飛騨から切り出した木材を庄川に流して運び、庄川町に集めた。水に浮かぶ木材の上に乗って上手にあやつる「流木乗り選手権」は、昔の流木技術を今に伝えるイベントである。
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- 砺波市出町で毎年4月16、17日に行われる子供歌舞伎。曳山の上で演じられる子供歌舞伎は200年もの長い伝統を誇り、役者は5歳から13歳までの子供達である。県の無形民俗文化財に指定されている。
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- 初夏を彩る越中大門凧祭りは、毎年5月第3土日曜日に庄川河川敷で開催される。緑豊かな庄川の河川敷で繰り広げられる凧祭りで色とりどり、大きさも形もさまざまな凧が大空に舞い上がる。
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- 砺波平野は、その大部分が庄川扇状地からなり、越中の穀倉地帯として知られている。農村はこの地方特有の散居村を形成し、各家屋は互いに100m内外の間隔をおいて建てられ、東を除く周囲は杉を主とした巨木で囲まれている。これは、防風、防火、防雪の役割を果たし、この地方では「カイニョ」、「カイナ」と呼ばれている。全国的にもこれほど広い地域におよぶ典型的な散居村は少なく、家を新築や改築する場合にもこの形態が踏襲されている。
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- 庄川扇状地に位置する砺波市と庄川町が国土交通省の「水の郷百選」に選ばれている。
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- 大伴家持が越中の国守として就任した頃、庄川は雄神川と呼ばれていた。庄川でも家持は歌を詠んでいる。
「雄神川 紅匂う 少女らし 葦附採ると 瀬に立たすらし」
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- 高樹文庫は江戸時代後期の篤学者石黒信由(のぶよし)を中心に、その子孫信易(のぶやす)・信之(のぶゆき)・信基(のぶもと)の四代にわたる和算・天文暦学・測量術・地図作成・航海術などの学問・技術に係わる資料を収蔵する新湊市第一級の文化財の宝庫です。高樹文庫には、12,000点余りの資料がありますが、そのうち2,051点が、昭和59年6月に「歴史資料 石黒信由関係資料」として、国の重要文化財に指定されました。
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- 「今泉(いまいずみ)」、「清水町(しみずまち)」(高岡市)、「祖泉(そいずみ)」、「久泉(ひさいずみ)」(砺波市)