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更新日:2021年2月24日
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むかしあったとぉ~(立山のちょっと昔の話)
学校登山が秋季特別企画展のテーマになっているので、今回はいつもと趣を変えて学校登山の思い出を書いてみたい。
意外に思われるかもしれないが、戦時中は、精神修養とか、鍛錬の一端として、よく立山登山が実施された。さすがに終戦間近には食糧難や経費面で実施回数が減少した。戦後バタバタの昭和22年春に師範学校を卒業、学制変更で6・3・3制となった新制中学に勤務した。小学校を間借り、適当に仕切った教室での授業が1~2年で落ち着いた頃、職員会議で立山登山が行事として取り入れられた。
立山は、地元の山で何時でも行ける、家族でも行けるとかで、予想に反して希望者は少なかったが、とりあえず実施された。付き添いは、教頭と若手2人の3名が担当した。はじめての行事だったが、生徒には勿論、父兄にも好評を得て先ずは成功した。
昭和33年に立山町の小学校に転勤し、そこでも登山の話をしたところ、教職員・PTA双方の賛同が得られて、学校・PTA合同の行事として1泊2日で実施となった。その後転任した学校でも、登山を学校行事に取り入れてもらったが、昭和55年に当時北陸一のマンモス校と言われた学校に教頭として赴任した際には、さすがに児童数が多く、登山は困難と判断して提案を控えていた。しかし、PTA会長より「教頭先生にお願いしてPTAの立山紅葉探勝の実施を」との提案があり、9月下旬に弥陀ヶ原で実施した。
天候にも恵まれ、私自身体験したこともない程の錦織の絨毯を引き詰めたような一面の紅葉、100名余の参加者からの「おおっ」とのどよめき…。
学校登山の結果、良かったことは児童生徒各々が何かをつかんで成長したことは勿論だが、学校とPTAとの距離が狭まり、種々な相談や話し合いが本心からできて、教育面や学校運営面で大きなプラスになったことである。また、同時に沢山の人々に立山を理解してもらえたことも良かったと思う。
多くの学校で学校(立山)登山が好意的に受け入れられた理由は、かつての立山禅定登山の伝統はもとより、富山の人々の心の中に立山が存在し、心の拠り所になっているからではないかとも思う。
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